4K 長野市大望峠と白馬山麓 北アルプスの紅葉と雪化粧

2016/12/11 に公開

2016年の11月初旬、長野市鬼無里の大望峠から白馬山麓は大出公園までを車で走り、

紅葉の背景に薄っすらと雪化粧した北アルプスを撮影した作品です。

長野県長野市の北西部に位置する戸隠と鬼無里を結ぶ街道(県道36号線)沿いにある大望峠。標高は1055メートル。峠付近は整備された新道から旧道へ入る側道があり、頂上が峠になります。

大望峠へは、南の鬼無里中心部から県道36号線を北上するか、戸隠の宝光社手前を鬼無里方面へ向かう2通りあり、鬼無里からは終始上りで約8km(すれ違い困難な箇所あり)、戸隠からは約5km(2km下って3km上る)で到着。

頂上は三角形の広場になっており、展望台からは戸隠連峰や一夜山(鬼が一夜でつくったという伝説があります)、さらに左には遠くまで北アルプスが連なります。手前には小川がつくりだす谷沿いに鬼無里の自然が広がっています。

奥裾花渓谷(日本百景)やミズバショウ大群落の奥裾花自然園(日本の秘境100選)など、美しい自然が残る長野県長野市の鬼無里(きなさ)地区。

この地域は、長野県の北部、犀川の支流、裾花川の源流沿いの盆地を中心に広がる中山間地で、周囲を荒倉山、虫倉山、戸隠表山、一夜山、物見山などに囲まれています。

鬼無里には紅葉伝説を代表として様々な伝承とそれに由縁をもつ旧跡や地名が残っており、伝説・伝承を訪ねて、トレッキングに出かけても面白いかもしれません。

◆鬼無里の伝説・伝承

【湖沼伝説】

鬼無里盆地がかつて湖だったとする伝承。

大望峠下の十二神社や村中心部の鬼無里神社などに伝承が残り、各所に伝承に因む歌碑などがある。

盆地を囲む虫倉山、荒倉山、土倉山(一夜山)を渡し舟が結んでいたとされる。両岸を結ぶ綱が張ってあり、これを頼りに船が渡ったとも。「北岸」の大望峠付近には十二神社、「南岸」の大洞峠付近には飯縄神社があり、両社にはかつて船を繋いだとされる槻の大木があった。十二神社には「船繋ぎの樹」の切り株が残る。大洞峠側の槻は昭和50年代に倒木したとされる。十二神社の社紋が帆掛け舟で、「波よけの鳥居」(厳島神社などに見られる両部鳥居)も伝承を裏付けるとされる。

湖水は銚子口(長野市側からみると鬼無里盆地の入り口に相当する)から裾花峡を抜けて流出し、湖底から「魚山」が現れたとされる。魚山は現在の市街地中心部にあり、頂部に鬼無里神社がある。水が涸れて出現した盆地は水無瀬村となり、7世紀末頃に鬼無里村と改称したとされる。

そのほか湖に住んでいた竜の「宝珠」が大龍寺に伝わっていたが、昭和15年に寺ごと焼失した。

【遷都伝説】

飛鳥時代(あるいは白鳳時代)に鬼無里に遷都の計画があったとされる伝承。白髯神社や両京地区周辺の地名、旧跡の由来とされる。一夜山の巨人伝説を伴う。

『日本書紀』には信濃への新京設置計画が記録されている。

遷都伝説ではこのときの遷都先が鬼無里とする。白髯神社の縁起は白鳳年間の遷都に際して勧請されたと伝えている。また伝承では、天武天皇に派遣された三野王(美濃王)は鬼無里を候補地と定め、都鎮守のため裾花川の左岸に加茂神社、右岸に春日神社を創立し、それぞれの地を東京(ひがしきょう)、西京(にしきょう)と命名したとされる。加茂神社境内には三野王が馬を繋いだとする石が残されている。さらに両社から裾花川沿いに約1キロメートル上流にある月夜の陵は、当時訪れた皇族の墳墓とする伝承も残る。このほか村内に散在する五輪塔も皇族の墓とされる。

巨人伝説では、遷都計画のあった時代には一夜山はなく、戸隠までの平坦地であったとする。遷都を妨害するため鬼が平野の中央に山を築き(一夜山)、これに怒った天武天皇は阿倍比羅夫を派遣して鬼を討ち、以来当地は水無瀬村から鬼無里村と改称したとされる。

【紅葉伝説】

北信州一円を舞台とする伝承で、会津、京都、鬼無里、戸隠、別所温泉などを舞台とする。能の代表的演目『紅葉狩』としても著名。

一般には主人公の「紅葉」は妖術を操り、討伐される「鬼女」であるが、鬼無里における伝承では医薬、手芸、文芸に秀で、村民に恵みを与える「貴女」として描かれる。

会津生まれの少女「呉葉」は美貌と才覚に恵まれ、953年(天暦6年)に16歳で都に上る。呉葉は「紅葉」と名を変え、源経基(清和源氏の祖)の局となり懐妊するが、956年(天暦6年)に19歳で信濃へ配流されてしまう。一般には、紅葉が経基の正室に呪いをかけた咎によるものとされるが、鬼無里では逆に紅葉は正室の嫉妬による讒言の被害者である。

信濃山中(奥裾花渓谷とされる)に配流された紅葉は、水無瀬(鬼無里の古名。)村の根上の里にたどり着く。水無瀬村では、紅葉は村人の病を癒し、男には読み書きや算術を、娘には裁縫を教え、京の文化を伝える貴女として村民に敬愛される。村人は京を偲ぶ紅葉のために「内裏屋敷」を建て、警護の「館武士」を置く。また、裾花側の両岸を京都に見立てて西京や東京などの地名をつけた。

両京地区に残る地名や旧跡

西京

春日神社

天神川

吉田神社

内裏屋敷、館武士 – いずれも地名として残る。

月夜の陵 – 紅葉の腰元であった「月夜」を葬ったものとされる。

東京 – 東京二条、東京三条、東京四条、東京五条の小字がある。

加茂神社 – 北側には加茂川が流れる。

清水

高尾

東山

松厳寺に残る紅葉の墓

紅葉の産んだ男子は父である源経基の一字をとって経若丸と名付けられ、やがて元服が近づく。しかし庶子の成長を忌む宮人の意向によって紅葉母子は討伐の対象となり、信濃守平維茂によって討たれる。なお、一般的な紅葉伝説では、再上洛を目指す紅葉が妖術を使って山賊を集め、暴虐をふるって近隣を荒らしたため、冷泉天皇によって平維茂が派遣されるという筋立てになっている。

塩田平から出陣した平維茂の軍勢は紅葉の妖術によって敗れるが、別所温泉の北向観音で降魔の剣を授けられる。これに力を得た維茂軍は荒倉山の岩屋に篭った紅葉と賊を討ち果たす。紅葉が討たれたのは969年(安和2年)とされる。これ以降、村は鬼無里と呼ばれるようになったとされる。紅葉の首はどこかへ飛び去ったため両腕を塚に葬ったとされ、戸隠にその塚が残されている。一方、現在の鬼無里中心街にある松巌寺には紅葉の守護仏とされる木仏が祀られ、境内には紅葉やその家臣の墓がある。

維茂は大洞峠を越え、麓の白髯神社で戦勝祈願を行い、魚山の鬼無里神社や津島神社にも祈願を行ったとされる。最終決戦の地となる荒倉山の荒倉山神社も当時勧請されたとする戦勝祈願の八幡宮が祀られている。荒倉山にはこのほか、紅葉とその郎党が隠れ住んだという岩屋も残る。

両京地区には現在も「内裏屋敷」や「館武士」の地名が残るが、内裏屋敷からは礎石や古代のものと思われる石器や黒曜石、9~10世紀の土器や鉄滓が発見されている

出典:

信州いざない街道 :

信州(長野県)の北部、自然と文化の山里・鬼無里にある「大望峠(長野県長野市鬼無里)」をご紹介。場所・駐車場・トイレ・アクセス方法等、旅行に役立つ情報をチェック!

ウィキペディア :


出典:Youtube/ 紅葉と雪化粧した北アルプスを望む大望峠と白馬山麓・4K撮影

この記事の作成者は

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする